田中知世子のひとり言

ピースクルーズは20年で延べ何人の方々が関わってくれたのでしょう。
職員の方々、行政の方々、地域の方々、業者の方々、友人、家族、数え切れません。
ピースクルーズは、幸せの航海を共に進む仲間たちの集まりです。

その時その時にみんなで考えたこと、出会ったことそしてその時々で人の考え方や社会の情勢も変化します。
そのようなことを振り返りまたこれからのピースクルーズを考えるためにも
関わっていただいた方に感謝しつつ少しまとめてみたいと思います。

介護保険の始まりから少し話しましょう。

介護保険が始まったのは2000年4月。様々なことが3月まで決まらない中スタートしました。
私は、第1期のケママネです。当時はわからないことだらけ。その頃はまだ私は老人保健施設の看護師。夜遅くまでみんなで残り「あーでもない。こーでもない。わからんなー。」と話したものです。

「わからないんですけどー。」と厚労省に電話したのも今考えると良く対応してくださいました。厚労省の方も大変だったでしょう。「質問などは、ファックスでお願いします」と厚労省から後に通達がありました。電話が鳴りっぱなしだったのでしょう。私は、巻紙のようなファックスを流したのを覚えています。もちろん厚労省からは、丁寧なお返事を頂きました。

今となっては、楽しい思い出の一つです。その節はありがとうございました。
一緒に働いていた仲間とワクワクして介護保険の開始を楽しみました。

あれから22年がたち介護保険は世の中に定着し、誰もが老後、介護が必要な時に自分の意思を持ってサービスを選ぶことができ、今まで家族介護に縛られていた人達の選択肢が増えました。日本政府の決定事項としては画期的なことではないでしょうか。

私が、60年以上生きてきて政府主導の決定事項としてはこれ以上の画期的なことは他に記憶にありません。言い過ぎですね。他にもあるかと思います。
しかし、「ハイ。明日から始まります。介護保険。」というのはすごい事のように思います。

ではまず移り行く訪問介護の事を話してみましょう。介護券開始当初のヘルパーさんは勢いがありました。印象に残るヘルパーさんが何人もいます。
やる気が前のめりのようなヘルパーさんです。「困ったはんねん!社長」「私が行かなあかんねん」みたいな感じです。ものすごく前のめりです。
家から利用者におでんを持ってくる人、利用者宅で棚を作る人、色々いましたね。

介護保険が始まったころは利用する人もヘルパーさんもよくわからなかった状況だったのですね。

でも、面白かった。誰かの役にたっているという充実感がありました。

介護保険開始当初は、「介護保険はやっていいこととダメなことがあります!」と何度もヘルパーさんたちに言った覚えがあります。

「介護保険法ではね・・。」とか「記録の書き方ちゃんと覚えてね」とかヘルパーさんのあつーい気持ちを削ぐようなことを私は、よく言っていました。
自分より年上のヘルパーさんが圧倒的に多いですから、生意気に聞こえたでしょう。

でも、「ほな、どないすんねん!」とがっつり食い下がってくれるヘルパーさんがいっぱいいました。

私は、今でもヘルパーステーションはこうであるべきと思います。

なぜなら、楽しいからです。一時スマートな介護事業所がいいのではと思いました。
私が説明に疲れたのかもしれませんね。結果は味気ないヘルパーステーションになっていったような気がします。
続いて、どんなヘルパーステーションを創ろうとしたか、お話ししてみましょう。